沼地のある森を抜けて 梨木香歩

梨木香歩 沼地のある森を抜けて

本のタイトルを挙げておきながら、全く関係ない話から入るうえ長くなります。

そもそも私とブログ、というよりインターネット掲示板サイト(懐かしい!)との出合いのきっかけは、15年以上前にあった「本のプロ」というサイトでした。もともと本が好きで、偶然そのサイトを知ってからは書き込まれた感想を読むだけでなく自分の感想文もアップするようになり、本好きの方々とコメントのやりとりをしたりおすすめの本を教えていただいていたりして充実した読書をしていました。が、しばらくして大量のスパム攻撃により残念ながらサイトは閉鎖に追い込まれ。そこで自分のブログをつくって感想文を移行し、それに加えて日々の記録をつけていったのが最初のブログでした。
そのブログ自体は9年ほど続けていて数年前からアップはしていませんでした。出産後、並行して全く違う趣旨で別のブログをつくったもののなんとなく雰囲気が合わずやめてしまい、一からやり直そうと思って始めたのが現在のこのブログです。
できるだけ日記的雰囲気では書かないでおこうと決めて書き始めてから1年が経ちました。最初のブログの始末をしようと思って読み返していたところ(2つ目のブログは思い入れがなかったのでさくっと削除)、この本を読んだときのあの興奮、東京出張に持っていって新幹線の中でむさぼるように読んだことまで詳細に思い出して、その体験を今の今まで忘れていたことに愕然としました。こどもをうんでもいいのかもしれない、と思えるようになっていくきっかけのひとつでもあったこの本のことを。

当時は毎日がいっぱいいっぱいで、読書で広がる世界が大好きで、今思うとむしろそこに逃げて、いわゆる大人になりきれない自分探しのモラトリアム期だったのかもしれません。毎日の通勤には本が欠かせなかったし、仕事帰りに本屋へ行って新しい本を選んで買うのも楽しい時間でした。
産後は娘がいる生活のすべてが新鮮で、多くのことを同時にこなせない自分には、要するに本を読む余裕がなかった。でも今回、あのときのことを思い出していてもたってもいられなくなりこの本をまた読んでみるとやっぱり読書は素晴らしくて。本を読みたい、読まなくちゃ!と思えました。

ということで、今後はときどき本も読んで、感想も書けたらいいなと思い、まずはきっかけのこの1冊の感想を記します。ふう、長くなった…

はじまりは、「ぬかどこ」だった。先祖伝来のぬか床がうめくのだ―
「ぬかどこ」に由来する奇妙な出来事に導かれ、久美は故郷の島、森の沼地へと進み入る。そこで何が起きたのか。濃厚な緑の気息。厚い苔に覆われ寄生植物が繁茂する生命みなぎる森。久美が感じた命の秘密とは。光のように生まれ来る、すべての命に仕込まれた可能性への夢。連綿と続く命の繋がりを伝える長編小説。(裏表紙より)

 

この本、文庫にして500p以上あるのですが、読み始めて5p目「代々伝わる家宝がぬか床である」と出てきてえっどういうこと?となる。そしてそのぬか床が野菜をおいしく漬けるだけの単なるぬか床でなくて、うめいたり卵ができたり、あげく人が出てきたりするんです。こう書くとホラーなのかミステリーなのか怪しさしか漂いませんが決してそんな物語ではありません。

初読時には、自分自身、個とか孤とか、境界とかグレーとか、すごく悩んでいました。で、私は中学生ぐらいの頃からこどもをうまない、と思って生きてきたので、この物語に描ききられた「孤の上に成り立つ命の繋がり」というものにただただ圧倒された。
今、再読して思ったのは、初めのページと最後の2ページに尽きるなあということ。いろいろと書こうと書いては消し、書いては消ししてみたものの、これ以上言葉が出てきませんでした。
長い物語だし、途中に『かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話』という本筋とは全く別次元の物語が3度挟まれるし、粘菌とか酵母とかフローラとか遺伝子とか頭が痛くなりそうな言葉も出てくるけれど、そこはさらっと流しても大丈夫だと思う。言葉は緩やかな一つの波になって、いつの間にか最後のページまでたどり着いているはずです。

これだけだとあまりにあれなので、初読時の若さと勢いあふれる感想を残しておきます。こんなことを書いてぬか漬けも漬けたりしていたのにこの本のことを思い出さなかっただなんて、この現実が恐ろしくて悲しい。もっと日々をしっかり刻み付けないと。

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ぬか床からはじまる命の起源を辿る物語。
そして、起源を辿りながら、これから先も続いていくであろうその営みの意味を知る物語。

これまでの梨木作品のテーマのとして『受け容れること』と『開くこと』があるのではと、いつも漠然としながらも思っていた。
受け容れたり開いたりすることが必要になる理由は、境界があるからだ。自己と他者の境界、男女の境界、個と群れの境界、人種の境界、果ては細胞の境界まで。
これらをどう越えるか、溶かすか、緩めるか。そのときに渡すもの、受け取るもの、そうしてつながる命。命の起源としての、たった一つの細胞の孤独。

主人公・久美と風野さんとの『化学反応』のシーンが感動的だ。久美は、沼地の人々の誕生について、『人が生まれるのに、有性生殖を必要としない、なんて人間じゃない。』と言うが、それに対し、風野さんは、バクテリアや藍藻類の話を挙げる。

基本的にはお互いよく似ている、同種のもの、でも、どこか決定的に違う、という相手に、発情するようになっている、はずです。発情、というこの無謀で破壊的な衝動が芽生えたのがいつなのかよく分からないけど。最初の性現象でも、それに近いものはあったのではないかと思います。

ここで、久美は、最初の性現象について『突然変異が先』だと反論するが、風野さんはこう答える。

たぶんね。そういうことになっているけれど、でも誰も見た者がいないから、
結局わかんないんだよ。一番最初に、有性生殖を行った細胞の勇気を思うよ。それまではひたすら、一つのものが二つに分裂してゆくことの繰り返しだったわけなのに、そのとき、二つのものが一つになろうとしたわけだからね。自殺行為だ。儒教精神の否定どころじゃない、無謀きわまりない暴力的な衝動としかいいようがないよ。

私が二人の『化学反応』のシーンを読んで抱いたあの崇高で美しくも寂しい印象は、『一番最初に有性生殖を行った細胞』のイメージだったのだろう。それまで、性に対してあまり敏感でなかった(風野さんに至っては無性であろうとしていた)二人が、初めて、互いが別の性を持つ存在だと認めざるをえない現象に及んだのだから。もちろん、実際はあのように、まるで分析するように冷静に語れるものではない。しかし、遥か昔から変わらないこの営みは、営みの意味は、きっと、二つの個の境界を溶かし一つになり、また一つの個を生むということでは、何も変わっていない。

『かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話』や、ぬか床人間たち、久美の祖先のふるさとである島の村『鏡原』の話は、有性生殖以外による命の誕生と増殖、その終焉が描かれているという点において、久美と風野さんの話とは対照的である。(『かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話』は、あの内容ゆえ、マクロからミクロまで幅広く解釈できる話だとは思うが)
たとえば、『僕』がもう一人の『僕』の存在について考え、やがて名前を与えてもらったとき、単なる『分裂』による『個』の増殖から、『個』の『個性』が生じたことになるのだろうか。結果として、『僕』は変容し、以前の『僕』の終わりを感じてしまう。その『シの実相』は、『抗いようがない』、『確実そのもの』なのだと。
そして、沼地の母性を思う。沼は母であり、命そのものである。その沼から生まれ、沼へ帰るという『鏡原』の人々。
徳蔵さんは言う。沼が枯れゆく原因は、単なる森の伐採ではなく、人の心の変化と、その欲望を可能にしてゆく世の中の変わりようなのであり、その流れは止めようがない。止めようがないのならば、その流れに身を置く場所を探してゆくしかない、と。
『僕』の終わりや沼地の終焉は悲しいことだと思う。防ぐことはできないのかと思う。けれど、生殖方法として、どちらがいいか、だなんてことを考えることも無意味だと思う。有性であれ、無性であれ、あらゆる命の生と死はつながっている。
繰り返される。
その繰り返しで生まれる「個」とは、いったい何なのだろうか。

久美が思い出したフリオの問いかけ。

久美ちゃん、自分って、しっかり、これが自分って、確信できる?

皮膚の壁で覆われた確実な「個」体ならあるけれど、富士さんの言葉を借りるなら『自分、ということの境界の問題』なのだ。
「個」は、「個」がおかれる場所(社会)によって、その主体は変化する。人は、細胞や皮膚の壁を超えて、幾重にも他者の存在を重ね、その主体性を変化させて、生きていける。自分の方から、社会から社会へと移動し、社会を広げ、変容していく。それが、『開く』ということではないか。
風野さんの『解き放たれてあれ』という言葉が重くのしかかる。

プロローグに、

こんなに酷い世の中に、新しい命が生まれること。
それが本当にいいことなのかどうか。

とあった。『ぐるりのこと』を読んで、私自身、ますますその思いが強まった。
未来に救いなんてあるのか。しかし、こんな酷い世の中だからこそ、その起源からつながりを辿り、もう一度自己を問いなおしたいのだ。「しょうがないなあ」と言いながら、抗いようがない流れに身を置く場所を探してゆくしかないのだから。

これだけの生と死を繰り返してもまだ、今もなお、世界でたった一つの、二つと同じものでない存在が生まれ続けるということ。
私たちは、たった一つの孤独な存在でありながら、それでも、自分ひとりの命を生きているわけではない。

この本を読んでからというもの、未だかつてないほど、考えた。内容はもちろん、自分はどうなのだろうか、ということを。
自分という個、その境界、そして、これから先、この命をつなげていくかについて。

命への慈しみと、あらゆる存在に対する真摯なまなざし。この本を読めたことは、きっと、かけがえのない財産になっていくだろうと思った。

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