2020年錦秋文楽公演『新版歌祭文』『釣女』@国立文楽劇場

2020年11月の国立文楽劇場

1月の初春公演から10カ月ぶりの文楽公演観劇となりました。春の公演がなくなり、もしかして年内は無理なのかもしれないと思っていたので、このたび無事観劇することができてとてもうれしかった。関係者の方々の日々の予防と努力のおかげだと思うと、身の引き締まる思いがしました。

◆『新版歌祭文』(しんぱんうたざいもん)

野崎村の段(のざきむらのだん)

油屋の娘のお染(おそめ)と丁稚の久松(ひさまつ)は、主従の関係を越えて恋仲になっています。お染の母で油屋の女主人であるお勝(おかつ)はお染に惚れている質屋の山家屋と結納を交わしますが、お染は嫁入りする気はありません。
一方久松は店の手代の小助(こすけ)の悪だくみによって集金した金を横領した疑いを掛けられてしまいますが、お勝の計らいで真相がわかるまで野崎村の養父・百姓の久作(きゅうさく)のもとへ帰されることになりました。

久作は女房の連れ子のおみつと久松を結婚させることにしますが、そこへお染が訪ねてきます。門口のお染に気もそぞろな久松の態度に嫉妬するおみつを久作が祝言の準備のため奥へ連れて入ると、お染は久松に縋りついて思いの丈を語り、二人は心中を決意します。様子を聞いていた久作の戒めに、二人は思いとどまることを表向きにには約束しますが心中の覚悟は変わっておらず、それを見抜いたおみつは尼となり身を引きます。病に伏せる盲目のおみつの母は我が娘のありさまを嘆き悲しみ、訪れたお勝はおみつの心に感謝し、お染、久松はそれぞれと大坂へ発つのでした。

近松半二作、宝永7年(1710年)に起きた心中事件を扱った世話物です。ということは、この段では心中を思いとどまった2人だったけれどもやっぱり最期は、ということなんだなあ。やり切れないな。

10月にあった第125回文楽のつどいで、一輔さんが「お染ちゃんのかしらがみどころ」と仰っていたので楽しみにしていました。人形師・大江巳之助さんのかしらを一輔さんがご縁あって個人的に譲り受けられたそうです。これがまたとても美しくかわいいお顔で。おみつとお染はおなじ娘のかしらなのだけれど、やっぱり違う。特に横顔。お染の横顔がものすごくきれいで艶っぽかった。

久作は和生さんで、家族思いでいいお父さん(というかおじいちゃん)だった。自害する役柄が続いていたのでなおよかった。母の看病で大変なおみつの気晴らしにと祭文売りから本を一冊買ってやったり、久松の奉公先へ梅の枝を手折って持って行ったり、段の最初のあたりは久作のおかげでほっこりと観られました。
で、お染がやってきて三角関係プラス久作というコミカルな場面。門口のお染の仕草はたいそうかわいかった。ちょんちょんと相図を出す指先がかわいくって。それにキーッ!となるおみつとのやりとり、間にはさまれた久作と久松が笑える。久作の禿げたおでこにお灸(たぶん)がすえられてあっちっちとなるところはベタだけども好き。

久松は文昇さん。おみつは清十郎さんで、こういう心中物の男性っていつものごとく全く魅力を感じられない人なんですよね。なんでお染はそこまで入れ込んでしまったのか謎すぎる。通しでなくひとつの段だけを観るから説得力に欠けるのか、そういうものなのか分からないけれど。お染に関してはかわいいので久松が惚れてしまうのもわかるけれど。おみつがまたいい娘なのでさらにかわいそうだった。おみつ、とってもよかったなあ。

盲目のお母さん(勘壽さん)がおみつの短い髪と袈裟に触れて娘が尼になったことを知り嘆き悲しむという場面はつらかった。私も母なので、こういう物語ではどうしても母に感情が入ってしまいます。この、触れて知る、という場面に人形浄瑠璃の醍醐味のようなものを感じた。観ている私はおみつが尼になったことは見えているし知っているけれど、盲目の母には見えていない。触れてやっと分かるその気づきを人形浄瑠璃でみせるということに。うまく書けないけれど。

2日前に体調を崩されたと休演なさった簑助さんがお勝で出てこられたとき、心の中で大喝采しました。なんというかもう、言葉にはできないな。もう観られたうれしさが半端なかったです。圧倒的母感だった(どんな表現)お人形から醸されるものとは思えないもの、でもお人形からしか漂ってこないものがあるようにいつも思う。

 

2020年錦秋文楽公演のチラシ1

 

久松と祝言を挙げることになってうれしくって髪を整えたり鏡をみたりしてはしゃいでいるおみつ。鏡を顔より上にして見るところがおみつの高揚感が出ていていいなと思った。祝言用のなますをつくるとき(実際に大根を切ります)の仕草もうきうきとしていてかわいらしかったなあ。お人形が料理をするところ、たまに出てくるのですがとても好きです。

◆『釣女』

独身の大名と太郎冠者(たろうかじゃ)の主従は妻を授かろうと西宮の神社に参詣し、お告げにより釣竿を得ます。大名が美女を釣り上げたのを見て、太郎冠者も我もと釣り糸を垂らすのですが、釣れた醜女(しこめ)でした。太郎冠者は隙を見て大名の妻を連れ去ろうとしますが、それに気づいた大名と醜女は怒って太郎冠者を追っていくのでした。

狂言『釣針』を歌舞伎舞踊にし、さらに文楽に移した作品だそう。
こう時代が変化してくるとなかなか笑えない内容だなと思い少々複雑な気持ちで観劇しました。伝統芸能である、という前提があっても厳しいものがありますよね…

太郎冠者は玉佳さん。玉佳さんは以前『かみなり太鼓』のトロ吉がぴったりだったことが印象深く、今回の太郎冠者もすごくよかった。
それと、私は狂言の独特の言い回しがとても好きなので、それを浄瑠璃で聞けたのも楽しかった。狂言を観に行きたくなりました。狂言も能も何年も観に行けていないな、行きたいな。
最後あたりに4人が並んで舞うところは、なんだか学芸会のようでほほえましくそれはそれでよかったのだけれど、どうしても人形の腰の高さが気になってしまった。狂言とはまったく別物なのだから当然なのですが。

久々の観劇、なによりも床とお囃子が素晴らしくて感動してしまった。自分で思っていた以上に、私はこの文楽観劇において床とお囃子が好きなのかもしれないと思ってしまった。視線は前を向いているのでまずお人形を観ているのに、久しぶりに観劇してみるとすとんと胸に落ちてきたのは、まず「音」であり「声」だった。これには胸が震えました。今度、ぜひ素浄瑠璃の会に行ってみたいと思います。

 

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