第121回文楽のつどい@国立文楽劇場

121回文楽のつどいの資料

大阪にある国立文楽劇場の「文楽友の会」会員限定イベント「文楽のつどい」に二度目の参加をしてまいりました。今回は、この一年をかけて三分割で上演されている『仮名手本忠臣蔵』にちなみ、忠臣蔵や近松門左衛門のお話が満載の内容で非常に楽しく興味深かったです。

第121回 文楽のつどい

1.お話「近松門左衛門のみた赤穂事件と忠臣蔵」

井上勝志(いのうえかつし)
神戸女子大学教授、専攻は日本近世文学・浄瑠璃史研究
主な著書『近松浄瑠璃の史的研究-作者近松の軌跡』(和泉書院)

文楽を鑑賞しながら歴史を知っていくスタイルなので、赤穂事件については斬りかかって切腹の仇討ちの討ち入りというイメージしかなかったところ、まず赤穂事件とは三つの事件だということで目からうろこ。

1:元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかった「刃傷」

2:元禄15年(1702年)12月14~15日の「討ち入り」

3:宝永7年(1710年)9月、浅野大学長広(長矩の弟)が安房国に五百石の知行地をあたえられた「浅野家再興」

刃傷事件の犯人の弟の長広が赦され知行地までもらっている理由は、二つの事件のときに将軍であった綱吉が亡くなったからだそう。
どうして詳しく年号を書いているのかというと、当時は私が想像するよりもっとお芝居が大衆の娯楽でありかつマスメディア的側面があったんだろうなと思ったから。例えば事件が起きたら2か月後ぐらいにはもう芝居として上演されて観客が押し寄せ、けっこうな銭もうけができたらしいです。
で、赤穂事件については、大坂篠塚座で『鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげむさしあぶみ)』という、事件を小栗判官物の世界に入れ込んだ狂言が上演されたのが宝永7年(1710年)6月。『仮名手本忠臣蔵』の先行作的な『碁盤太平記』(近松門左衛門が『太平記』の世界に仮託して脚色した浄瑠璃)が大坂竹本座で初上演されたのも宝永7年(1710年)と言われていて。大赦があって長広によって浅野家が再興されたのも同じ宝永7年。このスピーディーさ、すごくないですか!
人形浄瑠璃だと人形の準備ももちろんしないといけないし、民衆の間で「大赦が出るぞー」という気運が広がっていって準備が着々と進められ、浅野家の再興が認められ、完成した舞台を観にわっと人々が集まったんだろう(想像です)と思うと、なんだかめちゃくちゃダイナミックなエネルギーを感じる。現代のようにいろいろなものが多種多様化していないから、分散しないそのエネルギーたるやさぞ大きかったろうと(想像です)。歴史のロマンを感じます。もっと真剣に歴史を勉強しておけばよかったと思う反面、文楽から知っていくスタイルなのが興味深く感じるゆえんなのかもしれないなとも思う。同じ内容を教科書で読んだってこんなにドキドキワクワクしないだろうし。あとはやっぱりあくまで大衆の歴史だからだろうな。トップの移り変わりを知るだけの歴史の勉強だとこんなに(以下略)。

その『碁盤太平記』は、近松の『兼好法師物見車(けんこうほうしものみぐるま)』の続編と言われているそうで、塩冶判官(えんやはんがん)の子、竹王丸(たけおうまる)が跡を継ぎ再興するという趣向。この趣向、という言葉を先生はたくさん使っておられて印象的でした。
赤穂事件にまつわる作品がこんなにたくさんあるのも初めて知ったし、作家がそれぞれバリエーション豊かに脚色し趣向を凝らしているのが忠臣蔵物の魅力にもなっているんだろうなと思う。
それから、近松ってゴシップ好きの人に捉えられがちだけれど、その解釈は違います、っておっしゃっていたのも印象的。確かに、流行りの事件を取材して本にして、となったらそんなイメージをもちそうだもんね。

 

2.映像 文楽「碁盤太平記 山科閑居の段」(ダイジェスト版)

昭和55年2月 国立劇場第52回文楽公演

口 豊竹英太夫(現 呂太夫)
  鶴澤浅造(五代)

奥 竹本文字太夫(七代 住太夫)
  野澤錦糸(四代)

<人形役割>
大星力弥 桐竹一暢
奴岡平 実は寺岡平右衛門 吉田小玉(五代 文吾)
飛脚 吉田簑太郎(現 桐竹勘十郎)
大星由良助 吉田玉男(初代)

大星由良助は塩冶家の滅亡で浪人し、一子力弥と山科に隠棲している。下男の岡平が無筆と偽り主君の敵、高師直(こうのもろのお)からの書状を受け取るのを見咎めた力弥は岡平を斬りつけるが、帰宅した由良助はとどめを刺そうとした力弥を押しとどめる。
実は岡平は塩冶の旧臣の息子、寺岡平右衛門で、師直の間者になりすまし師直方を油断させる情報を流していたことを告白する。碁盤の上に碁石を並べ、敵の屋敷の間取りを大星父子に教えて平右衛門は死んでゆく。(山科閑居の段)

出遣いかと思っていたら黒衣でした。ダイジェスト版なので、もっと観たいー!となって終了…。切ない。
私、今回の映像鑑賞ではっきり気づいたのだけれど、黒衣のほうが人形浄瑠璃の情報すべてをスムーズに鑑賞できるような。あくまで初心者の私の場合。同じ演目を何度も観ていけば出遣いならではの素晴らしさを堪能できると思うのですが、道のりは長い。

 

3.対談 「忠臣蔵をめぐって」

豊竹呂太夫(とよたけろだゆう)
1967年、竹本春子太夫に入門、祖父の十代豊竹若太夫の初名、豊竹英太夫を名乗る。1969年、四代竹本越路太夫の門下となる。2017年、六代豊竹呂太夫を襲名。
主な著書『文楽・六代豊竹呂太夫』(創元社・共著)

亀岡典子(かめおかのりこ)
産経新聞編集局文化部編集委員、芸能担当記者として長らく歌舞伎、文楽、能など日本の古典芸能を担当。
主な著書『文楽ざんまい』(淡交社)

呂太夫さんが先の『碁盤太平記』の山科閑居の段の口をなさったのが31歳の頃だそうで、全く記憶にないとのこと、笑。『碁盤太平記』よりも『仮名手本忠臣蔵』が圧倒的に上演回数が多いことについては、通し狂言としてよくできている、興行的にもよい、と。今年の三分割の忠臣蔵でも大人気で完売しているし、三分割というのが時代のニーズに合っているというのは私も体感します(と同時に古くからのファンが不満をおっしゃることも分かる)。近松作品はおもしろい、とおっしゃっていました。

浄瑠璃では「たてことば」というものがあり(殺陣言葉になるのかな、調べたけれど分からず)※追記 タテ詞というそうです、力強く勢いのある台詞まわしのことなのだろうと思うのですが、これを言うのが非常に難しいそうです。特に若いころは力が入りすぎてしまうそうで、平右衛門をされたときにのどから血が出てしまいその血の跡が点々と残る床本を見せてくださいました。文字通り血のにじむ努力。
渾身の力を込めて、軽くやる、とおっしゃいました。『碁盤太平記』の映像を観て、七代目住太夫さんをすごいなあと思ったところだったのですごく納得。自分の声だけで相反することを行いながら表現する、なんてすごい世界なんだろう。いくつか実際に声を出して分かりやすく説明してくださって、参加者からは感嘆の声が。
七段目は、芝居の要素がたくさんあって見どころ満載とのこと。とっても楽しみです。

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